もくじ
  • 【表紙】
  • 【目次】
  • 【巻頭の言葉】
  • 発刊に当たって 戸口 晋 高23
  • 二十周年記念事業 中根 章介 高11(仮)
  • 創立二十周年を祝して 野辺 博 高24(仮)
  • 西部浦高会二十周年によせて 川野 幸夫 高13(仮)
  • 西部浦高会創設のこと 大塚 陽一 高19(仮)
  • 西部浦高会と私 西澤 堅 高11
  • 【第一部】浦高百年の森と
    共に歩む西部浦高会
  • 「浦高百年の森」づくり、に参加して 中根 章介 高11回
  • 浦高百年の森の植物希少種 牧野 彰吾 高14(仮)
  • 百年の森と西部浦高会の歩み

  • ■資料集
  • 【第二部】 座談会
  • 座談会ビデオ YouTube 2023年12月10日
  • 座談会ハイライト
  • 【第三部】 寄稿集
  • [浦高時代の思い出]
  • 教室風景 寄稿サンプル
  • 工芸に明け暮れたこと 寄稿サンプル
  • 片田舎より 髙山英治 高20回
  • 60年前の浦高時代 鈴木立之 高16回
  • サッカーに捧げる! 成井 正浩 高18回
  • 「理科」老教員雑感 江里俊幸 高21回
  • 甲子園で八重雲を 柏木浩太 高60回
  • [近況報告]
  • おせち料理は完全分業 寄稿サンプル
  • 【編集後記】
  • ウェブ記念誌発刊のこと 辻野 淳晴 高31(仮)


さよなら、人見さん
 

  新年のご挨拶と一杯のお誘いを兼ねて、人見さんの携帯電話に「ある種の期待」をもって、連絡を入れたのは一昨年(2022年)1月7日のことである。
 電話は通じ、彼の奥さんが出た。例えば旦那さんが運転をしており、代わりに奥さんが電話に出るということは良くあることである。しかし、一向に人見さんが電話に出てこない。ややしびれを切らした私は人見さんと電話を代わって欲しい旨を奥さんに告げた。奥さんの回答は「人見は昨年の夏に亡くなりました」。
 これより2年前、人見さんから電話があった。沈み切った声で、「ガンが見付かった。自分の不注意をすごく残念に思っている」。私には返す言葉を即座には見付からない。辛うじて、「進歩した現代医学、更なる医学の進歩を信じましょう」としか言えなかった。 浦和高校12回生である人見秀一さんとは、西部浦高会で知り合い、爾来、年に2、3回酒を酌み交わす仲になった。飲む場所は池袋、浦和、大宮であったが、とりわけ大宮の町中華(店の名は失念したが)が多かった。それは埼玉での勤務時代、彼の同僚との思い出の場所だったらしい。どんなにお酒を飲もうが紳士的に振る舞い、自分の意見を押し付けるようなことはなかった。大のサッカーファンであるが(息子さんもサッカー関係の出版社に勤めているとのことであった)、意味もないことを喚き散らすようなことは一度もなかった。誇り高き庄内藩士の末裔の故である。
 人見さんとの酒席の話題は、私が台湾に友人が多く、年に数回台湾に出かけていることから、台湾に関することが多かった。そして、早い機会に一緒に台湾に行こうということであった。それは伯父である人見秀三中将の台湾における足跡を辿ってみたいからである。
 人見さんの名前である「秀一」は、人見秀三氏が由来である。数年前までは、ウェブで人見秀三氏を検索すると日本人の品格の項でその名を見出すのみであったが、最近に至り、ウィキペディアで「人見秀三(ひとみ しゅうぞう)」の項で経歴等を確認できるようになった。
 戦争を知らない世代である私が、太平洋戦争末期の戦績を語るのは誠におこがましいが、人見秀三中将を語るにあたっては、不可欠であるので、私の拙い推測が入るが述べたいと思う。
 人見中将率いる陸軍第12師団は関東軍の中でも最精鋭部隊といわれていたが、第10方面隊に編入され、台湾防衛のため、台湾に移駐したのは、1945年の2月のことであった。その前年の11月、沖縄に配備された部隊では最強力の第9師団も 台湾に移動している。
 南洋諸島が、次々と連合国軍の手中に落ちたことから、台湾に精鋭部隊を送り込み、万全の体制をとった。日本本土への上陸を阻止、あるいは遅らせる意図があったものと思われる。
 50年来の台湾の友人である劉日鴻さんは、少年期に米軍機を撃ち落とした日本軍の中隊長さんの話をしてくれたことがあった。その話から推察するに、連合国軍は陽動作戦として、台湾に対してそれなりの攻撃を加えていたようである。
 しかし、九州、関東の上陸作戦を計画していた連合国軍は、台湾を通り越して本土により近い沖縄に上陸した。1945年3月のことである。連合国軍としては、一日でも早く戦争を終結させるためには、精鋭部隊と対峙することを避け、無駄な犠牲者を出さず、さらには時間の節約できることから、より効果的な作戦を実行した。
 これによって、地獄絵図よりももっとひどい凄惨な目にあったのは沖縄の人々であるが、本題とはあまりにもかけ離れているので、詳述しない。
 連合国軍が沖縄に上陸したことから、台湾は戦場にならなかった。太平洋戦争終結後、人見中将の任務は、台湾にいる将兵を日本に帰還させることとなった。その任務をやり遂げたのち、戦争責任をとり、故郷の地を踏むこと無く、服毒自決したのである。人見秀三陸軍中将、享年57歳。
 だが、戦場にならなかった台湾であるが、その後、思いもよらない試練が待ち受けていた。これも詳述しない。
 ガンを発病した人見さんであるが、治療の効果か、発病後1年経過したころは、声にも張りが戻り、元気回復の兆候が感じられた。それからさらに1年後、2022年1月7日、電話した。「ある種の期待」とは、少なくともガン治療の成果があったとの声が聞きたくて、そして、完治と言えなくても、従前の人見さんに戻っていることであったが、奥さんの回答で、その期待は木っ端微塵となった。そして、当然ながら人見さんとの台湾旅行は幻となった。
 2022年のスタートは、あまりにも寂しいものとなったが、今日でも心からご冥福をお祈りしている。
「さよなら、人見さん」    

   




西部浦高会